岩坂彰の部屋

第8回 チームで翻訳をする(上)

岩坂彰
右側は日本聖書協会の新共同訳聖書(A6判)。大きさがお分かりいただけるかと。

今月、大阪の創元社から『聖書大百科』という大きな翻訳書が刊行されました。大きな、というのは、物理的な大きさもありますが(B4判、厚さ6センチ、重さ4キロ。読むだけで筋トレになります!)、内容的にも、各種の聖書の物語本の中で大きな位置を占めるものになるはずです。

翻訳は、私を含めて8人のチームで行いました。26万ワードという分量を、企画から校了まで1年少しというタイトなスケジュールでこなしたのですが、思い 返すと苦労の連続でした。今回はその苦労話というか、チームで翻訳をする際のメリットとデメリット、うまく進めるための工夫や注意すべき点をまとめてみよ うと思います。

見積もりの難しさ

昔お世話になった編集者からこの企画の相談を受けたのは、昨年の2月のことです。その時点ではまだ企画は決定しておらず、版元の創元社ではなく、そ の編集者が勤めるプロダクションからの打診でした。あまり翻訳物を扱った経験がないとのことで、そもそも可能なのか、やるとしたら翻訳にいくらくらいかか るか、という段階からのお話でした。

私のほうからは、まず、キリスト教についてかなりきちんとした知識のある人を探す必要があることを指摘しました。監修者が付くとしても、最低限、監修者に 質問をするポイントをつかめる程度には分かっている人でなければなりません。私では力不足ですし、しかも当時私は精神医学/脳科学に気持ちが向いていて (今もそうですが)、あまり関わる気持ちになれなかったので、心当たりの人に尋ねてみます、ということでその場は終わりました。

問題は金銭的な見積もりでした。この企画は印税ではなく、原稿料で支払われるということでしたから、ワード数とワード単価を考えればよいわけです が、原書は不定形の図版が多く、ぱっと見でワード数が分かりません。PDFデータでもあればすぐにカウントできるのですが、だいたいこの種の本のデータと いうのは、原書出版社でもなかなか整理できていないものです。まあ20万ワードくらいかなあということで、話を進めました。結局本文は19万3000ワー ドで、ほぼ正解だったわけですが、巻末の資料集や地図中の地名を甘く見たのがあとで響いてきます。

もう一つの問題は、翻訳者の手をどのくらい分けるかによって、ワード単価が変わってくるということです。翻訳者の数を増やせば、時間は短縮できます が、一人あたりの作業効率が下がり、また、ばらつきが増える分、取りまとめの人間の労力が増えます。つまりワード当たりのコストが上がります。最初は、翻 訳者3、4人かなあと思っていたのですが、アクシデントなどもあり、結局8人必要になってしまったことも読み違いでした。



原書(上)と日本語版(下)。共同印刷の場合、文字の分量を完全に合わせなければならないため、翻訳の仕上げに非常に苦労します。山崎さん、ほんとうにご苦労さまでした。

しかも、これだけ大きなプロジェクトになると、単に「翻訳を取りまとめる」だけでなく、チームのマネジメントというコスト――誰にどの部分をいつお 願いするかという進行管理や、その前に、誰にいくらで引き受けてもらえるかという人探しの作業――が発生します。諸々の要素を考えると、ワード単価20円 はほしいところです。結局それよりかなり安く話をまとめてしまったのですが、実際20円だと企画そのものが成立していなかったかもしれません。このへんが 難しいところですね。

人探しが難航

たまたまその前に別のプロジェクトでご一緒させていただいた翻訳家の山崎正浩さんが神学校のご出身だったことを思い出し、取りまとめ役をお願いした ところ、快くお引き受けいただけました。また、旧知の寺西のぶ子さんも参加してくださるとのことで、まあいざとなったら私も翻訳に加わればなんとかなる か、と3人で試訳を作って話を進め、3月中に正式決定までこぎ着け、翻訳の仕上げは山崎さん、翻訳チームのマネジメントと支援システム管理は私、という分 担も決めました。そこまではよかったのですが、寺西さんが残念ながらご病気でお休みされることになり、大急ぎで人を探さなければならなくなってしまいまし た。

内容が内容ですから、キリスト教徒の翻訳家の方を頼りに探してもらったりしましたが、なかなか見つかりません。トライアルをお願いした方の数はかな りになります。しかし、翻訳の力以前に、内容の理解が難しかったようです(キリスト教徒だからといって聖書の知識があるとは限らないのですね)。

※ここで翻訳家志望の方にアドバイス。英語の書き手は、必然 的にユダヤ教/キリスト教の文化を背負っていることが多いものです。聖書の物語について、最低限の知識は身につけておくことをお勧めします。いえ、『聖書 大百科』を買ってくださいということではありません(豪華本なので、3万円ほどします)。図説ナントカ、といった聖書本はたくさんありますので、一度通読 されるとよいでしょう。

こういう人探しが難しいのは、一つにはスケジュールの問題があります。この内容に対応できる力をお持ちで、興味を示してくださる方は何人かいらっ しゃったのですが、「これから数ヵ月」という条件がネックになるのです。ばりばり仕事をしている翻訳家は、たいてい半年先、1年先まで予定が詰まっている ものです(私自身、このとき抱えていた別の仕事がまだ数ヵ月かかりそうな状態でした)。時事ものならともかく、聖書の解説ですから、出版に1ヵ月を争う内 容ではありません。けれどもこの本は「国際共同印刷」という方法をとることになっていました。世界の各国語版を、香港とかシンガポールとか、一箇所でまと めていちどに印刷するのです(その分、コストが安くすみます)。日本語版だけ遅らせるわけにはいかなかったのです。

アメリアのような求人サイトを使ってトライアルでスクリーニングする方法も考えましたが、それはそれで時間とコストがかかります。もう少し時間に余裕があったらうまく利用できたかもしれませんが。

「相互チェック」の理想

さらに人探しを難しくした条件は、「翻訳者には、翻訳だけでなく、他の分担者の翻訳のチェックもしてもらいたい」という私の考えでした。最終的に山 崎さんがすべてに目を通すのは当然ですが、その前に、翻訳者が相互に目を通しておくことによって、用語やスタイルのばらつきを抑えられ、しかも一人一人が 本全体を見る目を持てるため翻訳の質が上がるはずだと考えたのです。これができればアンカーの山崎さんの負担もかなり減りますから、コスト的にもなんとか なると踏んでいました。

私の翻訳に対する山崎さんのチェック。指摘や代案をもとに私がさらに訳し直します。ややこしい箇所はSkypeで質問しながら考えることも。  最終的には山崎さんがまた手を入れられるので、私の訳し直しは無駄な作業のように見えますが、他の人の訳稿を私がチェックすることなどを考えると、全体としては効率が上がったはずです。

※写真をクリックすると大きく表示できます。

私は基本的に、翻訳は一から十まで一人でするべきものだと思っています。一冊の本、一つのテキストというのは、有機的な統一体だからです。部分をつ なぎ合わせてできるものではありません。しかし、この本のように、スケジュール上、どうしても手分けして進めなければならず、構成上ある程度それが可能な ものもあります。そういう翻訳をするときには、ごく一部だけを担当する人であっても、せめて全体の概要を知り、できれば他の人たちと共通理解を図ったうえ で取り組んでほしいというのが、私の考えです。相互チェックというアイディアは、そのための一つの手段でした。

相互チェックは、ある程度力量に差があっても、基本的な部分で認めあえればお互いに勉強になるものですが、あまり力の差が大きいと難しくなります。 今回のプロジェクトでも、人探しの困難の結果、結局一部で「下訳」的なお願いのし方、つまり翻訳だけしてもらって、あとはアンカーが一方的に手を入れて、 おしまい(翻訳者には何のフィードバックも戻らない)、という形を取らざるをえなかったことが心残りです。

それでも一部の方には問題点のフィードバックをしましたし、山崎さんと寺西さん(ご病気が良くなり、プロジェクトの終わりころ復帰していただきまし た)と私との間では相互チェックもできました。相互チェックの場合、可能ならばチェック者はリライトしてしまうのではなく、問題点を指摘したり代案を提示 したりして、翻訳した側がそれを受けて訳し直すという形をとります。

次回は、進行管理や用語統一などのためにチーム内で図った情報共有の方法についてお話しします。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2008年10月20日号)